|
後藤 健二(ごとう けんじ、1967年9月22日〔『文藝年鑑』2008年〕 - 2015年1月30日〔)は、日本のフリーランスジャーナリスト。 == 人物・来歴 == 1967年(昭和42年)、宮城県仙台市で末っ子として生まれた。8歳上の兄と、姉がいる〔『週刊文春』2015年2月12日号〕。父親は日立製作所勤務で転勤が多く、2歳の時に名古屋に。5歳の頃に東京に引っ越した〔『週刊文春』2015年2月12日号〕。この頃母親は離婚して家を出て、父親は多忙であったため中学時代からは兄や姉に面倒を見てもらっていた。世田谷区内の公立小中学校から法政大学第二高等学校に進み、アメリカンフットボール部に所属したが、腰痛のため退部〔『週刊文春』2015年2月12日号〕。 法政大学社会学部応用経済学科(現・社会政策科学科)在学中にアメリカのコロンビア大学に語学留学。その留学費用のかなりの部分を母親が負担し、後藤の誕生日には母親が高価なビデオカメラをプレゼントしたり、母子関係は決して疎遠ではなかった〔橋詰雅博ツイッタ―〕。21歳だった後藤健二はコロンビア大学留学中に母親の誕生日を祝って母親に手紙を送った。その愛の手紙が写真週刊誌「フライデー」等に掲載された〔田中稔ツイッタ―〕。また、在学中に湾岸戦争(1990年8月2日 - 1991年2月28日)が勃発、イスラエルに渡航して現地の大学生に話を聞いた。この経験がジャーナリズムの世界に興味を抱くきっかけになったのではないかと兄は見ている〔『週刊文春』2015年2月12日号〕。 1991年(平成3年)の大学卒業後に就職した日立製作所の子会社を入社3か月で退職したのち、東京放送系のテレビ番組制作会社を経て、1996年(平成8年)に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立した。しかし当初は仕事は少なく、兄が経営する塾のアルバイトもしていた。ジャーナリストとしては国内を主に活動し、余裕のある時には1年~3年間ずつ講師の仕事もこなした。何年間かの下積みの後、海外での取材も成功し始めアフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わる。後藤家は無宗教であったが、後藤自身はいつしかキリスト教を信仰するようになり取材の際には小さな聖書を持ち歩いていた。1997年に日本基督教団田園調布教会で受洗する。 2006年(平成18年)、紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生すると出生地でもある宮城県に入り、被災地の石巻市や気仙沼市において日本ユニセフ協会の記録員を務めた〔「「果敢な記者」人質に 後藤さん、10月下旬に音信不通」 (朝日新聞 2015年1月20日)〕〔〈2邦人殺害警告〉仙台出身後藤さん無事祈る (河北新報 2015年01月21日水曜日)〕。中東での取材中、アル=ヌスラ戦線に拘束されたものの、1日で解放された。2014年10月に妻が夫婦の2人目の子供となる女子を出産〔「イスラム国拘束・後藤健二氏の母親が会見」 ログミー2015.01.23〕。前妻との間にも一女をもうけている〔。 また、2012年頃、母親の誕生日を祝って後藤が食事会を開いた際の親子二人の写真が公開されている〔〕。 2014年10月下旬 - 11月上旬にイスラーム過激派組織のISIL(イスラミック・ステート、イスラム国)に拘束され、2015年1月30日に殺害されたと見られている。同年2月12日、国連安全保障理事会の決議の採択後、サマンサ・パワーは、「生涯を紛争について書くことに費やした」と称賛した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後藤健二 (ジャーナリスト)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|